ところで、この東歌を紹介する前に、東国ということについて一言しておかなければならない。奈良時代に、東海地方をも東国に含めて考えるのが普通であったことは前にも述べたが、この東歌に収められた歌の国わけをみると、それがすべて、遠江・信濃以東の歌であることが注目される。すなわち、当時、東国と西国との境は、信濃ー遠江の線だったのであって、しかも今日、現代方言の東西の境界線もまた、長野県・静岡県の西境の線であることが解明されており、両者は完全に一致するといってよい。しかもこの線はさらに古く考古学で扱う時代においても、遺物上の区別から認められるという。
遠江は、このような東西の境界線上にあり、東国の西端に位置する。さきに持統上皇の御幸について触れたが、その御幸は三河までであった。このこともまた、遠江が東国として、三河とは一線を画していたことによるのではなかろうか。もちろん、飛驒・美濃・尾張の諸国をも東国として扱う場合もみられないではないが、この三国はいわば中間的な性格を持つ地域で、純粋の東国は必ず遠江以東だったのである。そしてさらに、今日の関東・東北地方にあたる地域は、東国の中でもさらに一段と異色濃厚な一グループを形成していた。後に述べる東国の防人も、すべて遠江以東の諸国から出されたのである。
つぎに、東歌の中の、遠江のものを紹介しよう。