【柵戸は誤】しかし、この「きへ」を「柵戸」と考えるのは、上代特殊仮名遣という原則からみて難がある。この特殊仮名遣の問題はとくに昭和に入ってから大きく進歩した領域であるが、その要旨は、今日では一音になっている「き」「ひ」「み」「け」「へ」「め」などの十三種のかなは、平安時代より前ではそれぞれ二つの類(甲類・乙類)にわかれていた。これは恐らく音が違っていたのであって、これを万葉がなで表わす時には、甲類と乙類それぞれに使用する字がはっきりわかれており、二群に分類できる、というのである。この知識でもって「伎倍」という万葉がなをみると、「伎」はキの甲類、「倍」はへの乙類に属する字である。ところが、「柵戸」の方は、「戸」はやはりへの乙類だからよいが、城というような意味の時のキは、乙類に属するのであって、甲類である「伎」の字は決して使わない。とすると、「伎倍」の「伎」を、柵の意味に解することは誤りであろうということになる。今日でこそどちらも「キ」であるが、当時は音が違い、意味も異なっていたと認められるからである。このような点が明らかになったのは一にこの上代特殊仮名遣の研究が進歩したからであって、古代文献の読解には、この知識は今日不可欠のものとなり、大きな効用を発揮しているのであるが、「伎倍」を「柵戸」と解釈するのがこのように無理だとすれば、やはり麁玉郡内の某地であろうとしか言えないことになろう。これを貴平(きへい)(当市貴平町)にあてる説もあるようだが、その当否は簡単にきめられない。