「天平勝宝七歳乙未二月、相替りて筑紫に遣さるる諸国の防人等の歌
かしこきや命被(みことかがふ)り明日ゆりや草(かえ)がむた寝む妹(いむ)無しにして(四三二一番)
(天皇の命を受け、明日からは妻なしで草とともに寝るのであろうか)
右の一首は、国造丁長下郡物部秋持(もののべのあきもち)、
わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影(かご)さへ見えて世に忘られず(四三二二番)
(妻は私をひどく恋い慕っているようで、飲む水にさえ妻の面影が見えて忘れられない)
右の一首は、主帳丁麁玉郡若倭部身麿(わかやまとべみまろ)、
時時の花は咲けども何すれそ母とふ花の咲き出来ずけむ(四三二三番)
(どうして母という花がないのだろうか、そんな花があれば持って来るのに)
右の一首は、防人山名郡丈部真麿(はせつかべままろ)、
遠江白羽(とへたほみしるは)の磯と贄(にへ)の浦とあひてしあらば言(こと)も通(かゆ)はむ(四三二四番)
(遠江の白羽の磯と贄の浦とがついていれば、言葉も通うだろうに)
右の一首は、同郡丈部川相、
父母も花にもがもや草枕旅は行くとも捧(ささ)ごて行かむ(四三二五番)
(父も母も花であってほしい、旅中も捧げ持って行くのに)
右の一首は、佐野(さや)郡丈部黒當(くろまさ)、
父母が殿の後方(しりへ)の百代(ももよ)草百代いでませわが来(きた)るまで(四三二六番)
(父母よ、私が戻るまで百代も長らえてください)
右の一首は、同郡生玉部足国(いくたまべのたるくに)、
わが妻も絵に描(か)きとらむ暇(いづま)もが旅行く吾(あれ)は見つつしのはむ(四三二七番)
(妻を絵に写す暇がほしい、そうすれば旅中その絵を見て思い慕うものを)
右の一首は、長下郡物部古麿、
二月六日、防人部領使遠江国の史生(ししょう)、坂本朝臣人上(ひとがみ)が進(たてまつ)れる歌の数は十八首。但し拙劣なる歌十一首あるは、取り載せず。」
すなわち、この時家持の所に提出された遠江出身の防人の歌は十八首であったが、彼はその中の七首を万葉集に載せたのである。残り十一首がどんな歌であったか、読むに堪えぬもの、まったく意の通じないものもあったかもしれないが、それはそれで、十八首全部が掲げてあったらばと、今日はだれもが思うであろうけれども、歌集を編纂する以上、このような取捨選択は当然すぎるほど当然なことである。われわれはたとえ七首でも、千二百年前の遠江の民の生の声が、こうして家持の手によって伝えられたという、類まれな事実に対して、深く感謝すべきである。
遠江防人歌 西本願寺本
万葉集巻二十