奈良時代に、世界的な唐の文化の流入によって、都は花と栄えた。中央と地方の文化の格差は、非常に大きいものがあったであろう。しかし、中央からはしきりに国司が派遣され、官使の往来も頻繁であった。国司はその任として、しばしば管内を巡回し、国分寺も磐田市西郊の台地に建立された。そのおそらく七重と思われる塔の偉容は、天竜川のほとりから明瞭に望みえたであろう。しかも民衆も、苦役とはいえ、調庸物の輸送に、衛士(えじ)・仕丁(しちょう)の勤務に上京して、中央の盛容に接したに相違ない。中央の文物は絶対に地方生活と無縁であったはずはないのである。
けれども、史料に乏しい古代史のつねとして、この地方の具体的な状況は容易にこれを察することはできない。ことに風土記(ふどき)が残されていない遠江では、その不便は一層であって、わずかに浜名郡輸租帳の存在や、諸国の正税帳などにほの見える記事の断片が、貴重なものとして喜ばれる程度である。しかもこれらの公文書も、結局は官製の机上の文案であって、何の感情をもあらわそうとしない。