これらはすべて平安時代の勅撰集に見えているものであるが、これらの歌をみて感ぜられることは、第一に、いかにも現実感に乏しいことであろう。浜名の橋といい、引佐細江と歌っても、そこにはただ、歌枕として名高い地名を調子よく詠み込むという、観念的・技巧的な表現があるだけで、現地に臨んでの感動などはすこしも察せられない。わずかに『後拾遺集』の大江広経の歌だけは、その詞書によって浜名の橋を実際に渡ったことだけは推測されるけれども、その歌はいたってありきたりのものであって、到底『万葉集』の歌の充実感に比すべくもないのである。
【ひくまの野辺】また、「ひくまの野辺」という句も『金葉集』巻一に、大江匡房の作として、
「春霞たちかくせども姫小松ひくまの野辺に我はきにけり」
とある歌にみえているけれども、これは正月子日(ねのひ)の小松引の行事にかけて「ひくま」の称を用いただけで、浜松の地とは何の関係もないのである。浜松にいたっては、『万葉集』以来、一貫して「浜辺の松」をあらわす普通名詞として使われているだけで、浜松の地をさしていると思われるものは一つもない。