「ぬまじりといふ所もすが/\と過ぎて、いみじくわづらひ出でて、とうたうみにかゝる。さやの中山など越えけむほどもおぼえず。いみじく苦しげれば、天ちうといふ河のつらに、仮屋作り設けたりければ、そこにて日ごろ過ぐるほどにぞ、やう/\をこたる。冬深くなりたれば、河風けはしく吹き上げつゝ、堪え難くおぼえけり。そのわたりして浜名の橋に着いたり。【浜名橋の消失】浜名の橋、下りし時は黒木をわたしたりし、この度は、跡だに見えねば、舟にて渡る。入江にわたりし橋也。【松原の光景】外の海はいといみじくあしく浪高くて、入江のいたづらなる洲どもにこと物もなく、松原の茂れる中より、浪の寄せかへるも、いろ/\の玉のやうに見え、まことに松の末より浪は越ゆるやうに見えて、いみじくおもしろし。それよりかみは、ゐのはなといふ坂の、えもいはずわびしきを上りぬれば、三河の国の高師の浜といふ。」
全文、とくに難解でもないから、一々説明の要はなかろう。ただし、文中の「天ちう」という河は、もちろん天竜川のことであって、何か誤記があるかもしれない。『更級日記』は彼女の晩年の作であるが、この紀行文などはどうも後年に記憶だけに頼って記したものではなく、旅行中かそのすぐ後に記しておいたのを、後にまとめたのであろうと考えられている。中には墨田川を武蔵と相模の境の川などと勘違いしている所もあり、十三歳の少女のこととて、多少の誤りもあるであろうが、簡単とはいえ、この程度までに東海道中のさまを順に記した文献は、当時他に皆無である。ことに浜名橋の消失や、海と松原の光景などは、よほど印象深いものがあったのであろう。いきいきとした調子で記されている。