以仁王の令旨は、四月九日にでて、その二十七日源行家らによって頼朝に伝えられた。頼朝は、各方面のすすめをうけてもなお決意しない。静観すること二か月で、ついに頼朝は源氏の家人(けにん)を招集しはじめる。そして八月十七日伊豆国目代山木兼隆を襲撃し、平氏討伐の旗をあげた。三浦介義明は、「われ源家累代(るいだい)の家人として、幸にその貴種(きしゅ)再興のときにあう」と喜んで、頼朝に味方し、一命をすてる。かつて南関東地方に源家の棟梁として活躍した義朝の正妻の子という門地(もんち)と血液こそ、頼朝にとって何物にもかけがえのない無形の財産であった。
頼朝は八月十九日付で、伊豆蒲屋御厨における非法を停止した下知状のうちで、以仁王の令旨によって、東国の国衙領(こくがりょう)と荘園(しょうえん)のすべての支配権を委任されたと宣伝している(『吾妻鏡』)。そして王が逃れて頼朝の陣営にいるかの偽装さえした。頼朝は京都からきた目代(もくだい)らを攻撃し、土着(どちゃく)の在庁官人を結集しながら国衙機構を支配下にくりいれ、これを利用した。
源頼朝像(京都 神護寺蔵)