頼朝に従った有力な武士は、在庁官人(ざいちょうかんにん)(国衙の役人)であった。多くの御家人は、永いあいだ地方をじっさいに統治していた、国衙(地方庁)の機構をそのままに活用する在庁官人の命令をうけて、鎌倉殿に服従する。鎌倉殿ー有力在庁官人ー郡司・郷司ー名主(みょうしゅ)(地主)という形が頼朝の東国を支配する機構の骨子である。それは、現実の支配秩序を承認し、これを頼朝の下にくみかえたにすぎない。頼朝が挙兵からすぐのちに、あれほどすみやかに成功をえた最大の理由はここにあった。
頼朝は挙兵した年の末に、遠江国から東部の関東諸国を支配できるようになっている。なお翌年改元して養和(ようわ)(一一八一)となり、二年をへて、寿永(じゅえい)二年(一一八三)に、京都の朝廷からその地位を認められ、頼朝は京都の年号をつかいだした。