義定の軍に勝間田・横地氏従う

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 【橋本の陣地】遠江守護安田義定からの報告をうけた頼朝は、二十八日和田義盛(一一四七-一二一三)らを派遣した。しかも右大将平宗盛(一一四七-一一八五)の家人景高ら千余騎が東下し、閏(うるう)二月十五日には、平重衡(しげひら)の追討軍が出発する。十七日和田義盛・安田義定らは、遠江国の住人横地太郎長重・勝間田平三成長らをひきいて、頼朝の指令に従い、浜松荘の橋本あたりに防禦陣地を構築した。遠江国橋本あたりが、要害地だとするのは、浜名湖の咽喉をやくし、東海道の西部の関門にあたるからである。義定らの防禦陣地は、いまの新居町よりもすこし南方の現在の浜名湖今切あたりの方が地の利をえていたように思われる。