浅羽氏の反抗

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 義定は、人夫を招集したが、浅羽庄司宗信・相良三郎は合力しない。しかも徒歩の義定の前を騎馬のまま通った。義定の使者武藤五が生命を睹した訴えにより、頼朝は両人の所領を没収した(のち両人とも許されたらしい)。
 三月十日頼朝の叔父源行家は、尾張・三河(愛知県)の兵をひきい、頼朝の加勢軍とともに平重衡と美濃(岐阜県)の墨俣(すのまた)河・三河矢矧(やはぎ)(いまは矢作だが古くは混用している)川で戦い敗北したが、木曾義仲と合体し、平氏を追って京都にむかう。このため頼朝と義仲との関係は悪化した。また安田義定らは、京都をめざして進撃をはじめる。