平氏政権の特長

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 平氏が総官や総下司職という独自の制度をつくったことは、はじめて独自の政権として出発しはじめたと評価されよう。総官は鎌倉幕府の守護制度に発展していき、総下司職は、地頭制度のもとだと考えられるから、鎌倉幕府の中枢機能は、平氏がつくったといえる。
 
 【平清盛の死】養和(ようわ)元年(一一八一)閏二月清盛が死亡すると、平氏の力は弱まる。
 【平氏の京都脱出】木曾義仲と源行家は、頼朝との衝突をさけ、北陸道(ほくりくどう)への進出をはかり、寿永二年(一一八三)に平維盛以下十万の大軍を撃破して近江(滋賀県)に入り、延暦寺との連絡に成功した。そして七月義仲は、京都に入る。その寸前に、法皇は平家の手をふりきって延暦寺に幸し、平氏は安徳天皇(一一七八-一一八五)をいただき九州に落ちのびる。