寿永二年(一一八三)九月、上京をうながす使者をむかえた頼朝は、法皇に対し、社寺や貴族の荘園を復活することの命令をだすよう要求した。貴族の最大の願いをみたしてやるかわりに、自分の存在価値を認めさせ、その地位を確立しようとのねらいであった。はたして頼朝が「謀反人」だとの刻印は消され、朝廷は、頼朝が支配している東海・東山両道の裁判権・強制執行権・追捕検断(ついぶけんだん)権は、すべて頼朝の手に委任することを国衙に命令した(『玉葉』)。頼朝の東国支配を全面的に認めたのではないが、土地問題解決のために大きな権限を頼朝に委任したのである。