元暦(げんりゃく)元年(一一八四)正月、まったく孤立した義仲は、頼朝の代官として上京した範頼・義経の軍と戦い、ついに近江国粟津(大津市内)で戦死する。この時遠江国住人内田三郎家吉は、義仲の妾巴(ともえ)とはなばなしい一騎打ちをした(『源平盛衰記』)。義経の軍に従い、義仲を追いちらすのに功のあった義定は法皇御所に参入し、法皇の命令で「安田三郎義定」と名乗(なの)る。
義仲が戦死すると、頼朝は、はじめて法皇から平氏追討の命令をうけ、平氏一族の五百余にのぼる荘園(さきに行家・義仲に与えたもの)を与えられた。九州に落ちのびた平氏は、福原(神戸市)まで進出してきたが、二月に範頼と義経の追討をうけ、四国屋島(高松市)にむかい脱出する。安田義定は、義経に従い一ノ谷の搦手(からめて)に進んでいる。一ノ谷の戦(一一八四)ののち、法皇は、諸国に対し武士の乱妨(らんぼう)を禁止する命令をだし、頼朝にその実行を委託した。それは頼朝の地位が全国的に認められたことを意味する。