[守護と地頭]

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 文治元年(一一八五)六月、平氏追討使頼朝は、職権により諸国に派遣し、国衙を支配させていた総追捕使(そうついぶし)の廃止を後白河法皇に申しいれた。七月には、大宰府(だざいふ)(福岡県筑紫郡)に駐屯して九州地方の鎮定と平氏方武士の所領没収にあたっていた範頼を召還する。しかし中原久経・近藤国平は、大宰府と九州の国衙の上にたつ地位に任命されて赴任している。
 頼朝と代官として京都に駐在していた弟義経との関係が悪化してきた。それは武士の統率者「鎌倉殿」が同族に対しとらねばならなかった態度と、つねに武士の指導者を対立させ、自由にあやつってきた後白河法皇の策謀の結果にほかならない。