頼朝総追捕使・総地頭になる

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 頼朝は、義経・行家を追捕するため、日本国総追捕使・総地頭に任命された。謀反人の没収地とその所在した一国には、頼朝が地頭を任命する。そのほかの郡(ぐん)・郷(ごう)、荘園(しょうえん)・保(ほ)などで、有力者が下司(げす)や地頭といい活動しているものは、その不法を調査し、処罰できる。頼朝は、有力な御家人を総地頭に任命して、国衙機構も支配し、全国の軍事・警察権をにぎり、全国の土地の調査ができることになった。
 義経・行家が京都を脱出する寸前に法皇から「九州・四国地頭」に任命された事実がある。この地区から兵粮米を徴収する権利を与えられ、年貢などを進上する責任をおうことになった。これは平氏の一国総下司職(そうげすしき)を発展させて、国家的な制度にまで高めた点で画期的である。
 守護は文治元年の前からはじまっている。頼朝が挙兵したはじめに遠江には、安田義定、駿河に武田信義、そのほか何人かの守護が任命された。この東国の守護たちは、その国衙をおさえていたのである。元暦(げんりゃく)元年(一一八四)三月、伊賀(三重県)の守護(総追捕使)になった大内惟義は、御家人たちを統率・指揮しただけでなく、国衙を支配した。守護が国衙の機構をとおして、その国を統治する政策は一貫している。