義経の行方

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 【義定の報告 奥州征伐 義定の従軍 頼朝の全国支配】義経に対し、後白河法皇をはじめ有力な人たちは隠(かく)れ家(が)を提供していたらしい。頼朝のきびしい命令があってもその行方はつかめない。文治二年(一一八六)四月二十一日に遠江守護安田義定は、幕府に出頭して、「国内の山寺まで捜したがわからない」と報告している(『吾妻鏡』)。のち義経は、奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)をたよった。文治五年(一一八九)に藤原氏の結束がくずれたのに乗じ、頼朝は大軍をあげて進み、奥州を平定した。三河守範頼・遠江守護安田義定も従軍している(『吾妻鏡』文治五年七月十九日条)。頼朝の権力は、はじめて全国におよぶことになり、十年にわたる内乱の時代は終わった。鎌倉殿による全国支配が、ほぼ完成したのである。