文治三年(一一八七)八月十五日、鶴岡八幡宮で放生会(ほうじょうえ)があった。頼朝が臨席し、三河守範頼・武蔵守武田義信・信濃守遠光・初代の遠江守護(『吾妻鏡』治承四年十月廿一日条)で、遠江守(『吾妻鏡』建久五年八月十九日条)の安田義定・駿河守広綱・小山朝政・千葉介常胤らが従っている。その二十六日義定は、四年間の任期がきれても遠江守に重任(ちょうにん)された。その代償として、京都伏見の稲荷神社を修造するようにめいぜられている。【成功】御所や社寺の一部の造営をひきうけたり、献金して再任される売官を成功(じょうごう)という。義定の重任も成功重任である。
なお文治四年(一一八八)四月、後白河法皇の御所の六条殿が焼失した。法皇は頼朝の知行国をはじめ諸臣に造営をめいじた。遠江に対しては表(おもて)の築垣を一町(一〇九メートル)と門などがわりあてられた(『吾妻鏡』文治四年七月十一日条)。これは国衙領の頼朝の収得分から支弁する。しかし義定の収得分からも負担したろう。このためか稲荷神社の修造が遅れた。