建久二年三月六日、また遠江守となった(『吾妻鏡』建久二年五月二日・同五年八月十九日条)同国の守護安田義定は、京都大番役を勤めている。四月二十六日日吉(ひえ)神社(延暦寺の鎮守)の神輿(みこし)が入洛したとき、義定の家人はこれをふせぎ戦った。延暦寺の僧兵は、朝廷に不満があると鎮守の日吉神社の神輿をかついで京都に入り強訴する。貴族たちも、宗教の咒術の威力に囚われているから僧兵の目的は達成されるのがふつうである。検非違使別当(けびいしべっとう)の命令で戦いを中止したところ、家人四人と所従(しょじゅう)(下人)三人は、延暦寺の僧兵のため負傷した。無念だから善処していただきたいとの上申に対し、頼朝は後白河法皇に訴えている。建久二年八月二十七日に「従五位下遠江守源朝臣義定」は甲斐(山梨県)山梨郡藤木村の法光寺に梵鐘を寄進している(『甲斐名勝志』)。義定は翌建久三年十一月二十五日、鎌倉永福寺の落成供養のとき将軍の供奉を勤めたからすでに大番役を終わっている。