義定の乱妨

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 義定は戦歴を飾った武士である。しかし遠江国鎌田御厨(かまだのみくりや)を押領したり(『吾妻鏡』寿永元年五月十六日条)、同国小杉御厨を乱妨し(『吾妻鏡』文治元年十月十四日条)、同国頭陀寺荘惣検校として年貢を未納したとか(『仁和寺文書』)、紀伊熊野山(和歌山県那智神社)領(いまの磐田市笠梅のあたり)の住民と国衙領の用水を引くことで争い、刃傷する(『吾妻鏡』文治四年三月十九日条)などの暴状もなしとしない。
 義定の子越後守義資は、建久四年十一月二十七日鎌倉永福寺薬師堂供養の時に、参列した女房に艶書を投げこんだ。これが梶原景時から頼朝の耳に入り、調査の上で翌二十八日斬罪となった。