義定以後の守護職

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 のち暦仁元年(一二三八)ころの遠江守護は北条時房、建長四年(一五二五)三月には、時房の子大仏朝直が、建治(一二七五-一二七七)・弘安(一二七八-一二八七)には朝直の子宣時、元弘元年(一三三一)幕府軍が上洛したときは、宣時の孫貞直が守護であった。遠江守護職は、暦仁からのち北条時房の一流大仏氏が代々うけついだ。
 遠江国は頼朝の永代(えいたい)知行国となった(後述)。その知行主は源家三代ののち摂家将軍から宮将軍に移ったろう。正治二年(一二〇〇)四月、北条時政は遠江守になり(『吾妻鏡』)元久二年(一二〇五)閏七月出家した。嘉禄二年(一二二六)五月遠江守佐原盛連は京都で乱行したかどで誅せられた(『明月記』『民経記』『尊卑分脈』)。弘安五年(一二八二)幕府は遠江守北条為時を博多に遣した(『歴代鎮西要略』等)。また正応三年(一二九〇)十月遠江守北条時定は肥前守となり鎮西で死亡している(『興福寺所蔵記』)。ともに蒙古襲来防衛のための派遣である。また延慶二年(一三〇九)七月遠江守江馬政俊は死亡した(『武家年代記』)。以上のように時政以後の遠江守は北条氏の一族であったが、同国の守護と守とは必ずしも同一人ではない。