【守護代 目代】遠江守護所がどこにおかれたかは不明であるが、「いまの国府跡とみられる大見寺、磐田北小学校付近に義定がいたろう」との説は(『磐田市誌』)承認されよう。しかし北条氏の守護は、在国しないのだから守護代と、国守の代官の目代(もくだい)をかねた人が守護所に在勤したのであろう。その守護代で目代は、他国の例によると有力な豪族だから、遠江では在庁官人の井伊氏であったかもしれない。
富士川合戦で敗退した平維盛は、千騎を越える兵力をもち、いまの磐田市見付にあたる遠江国府で援軍を待った。ここはすでに千騎の軍隊を養う能力があったとみえる。