勝間田成長御家人の資格を失う

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 【遠江の光堂】この国府には、光堂という寺院があった。建久六年(一一九五)十二月遠江国住人勝間田成長がここで騒動をおこし、そのため御家人の資格を失った。この光堂を蓮光寺(いまは西光寺)にあてるのが通説である。いま沼津市霊山寺の鐘は貞治三年(一三六四)に遠江国司前伊予守土岐直氏が府中蓮光寺のために勧進し、鋳造したものである(『県史料』一)。また慶安元年(一六四八)の徳川家光の寺領寄進朱印状写(『蓮光寺文書』)には「遠江国磐田郡見付内蓮光寺阿弥陀寺領」とあり、万延元年(一八六〇)徳川家茂の寺領継目安堵朱印状写も同寺に所蔵されている。
 勝間田成長は、前記のように横地長重らと橋本で守備をした武士で、文治二年(一一八六)二月頼朝の妹婿一条能保の帰洛にあたり、警固の人数に加えられて上洛した在京中に、玄蕃助(げんばのすけ)に任ぜられたようである。