【知行国 目代】頼朝は、平家の所領五百余か所を知行した。これが「関東御領(かんとうごりょう)」である。また彼は、多くの知行国をもっていた。国務の執行権を特定の個人に委付する制度が知行国である。それをもらった人(知行国主)は、子弟や近親を国守にすいせんし、別に目代(もくだい)を派遣する。そして国衙からの収入の大部分は、知行国主の収得になる。頼朝は文治二年(一一八六)、相模(神奈川県)・武蔵(東京都・埼玉県など)・伊豆・駿河(以上静岡県)・上総・下総(以上千葉県)・信濃(長野県)・越後(新潟県)・豊後(大分県)を知行していた。のち伊豆・相模は、頼朝の永代(えいたい)知行国となり、建久元年(一一九〇)からは、上総のかわりに遠江がえらばれた。鎌倉幕府において、遠江国の重要性がよくわかる。知行国が日本全国の半分もあったという平氏一族のぶんにくらべると少ないが、後白河法皇でさえ、一人で頼朝だけの知行国をもっていたことはない。一大荘園領主であったことと、多くの知行国をもっていたことは、頼朝の基礎を大きく支えた。