頼家の政治には、彼を中心に夫人の父比企能員(ひきよしかず)らの部将と、ようやく自分たちの利害を主張しはじめた家人たちと対立する底流が動いていた。そのなかで勝利者をめざして隠謀したのが北条時政である。時政は、頼家の弟千幡(せんまん)(実朝)を将軍にしようとした。この暗躍を知った侍所別当梶原景時(かじわらかげとき)(はじめは和田義盛が別当)は、有力な御家人の要求によって追放され、正治二年(一二〇〇)正月、京都に向かう途中(駿河国狐ヶ崎、いま清水市)で殺害された。時政の陰謀である。
北条時政の隠謀