幕府と院政権

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 幕府から、先約にしたがい上皇の皇子を将軍に迎えたいと願ってきたのを上皇は拒絶した。そのうえ幕府に対し、摂津国(兵庫県)長江・倉橋両庄の地頭を免職せよと要求した。この両庄は、上皇の愛人白拍子(しらびょうし)亀菊の所領である。しかもこの地頭職(しき)は、幕府が御家人に戦功の賞として与えたものである。これを没収されることは、その御家人の死活問題だけでなく、幕府の面目にかかわる。
 【摂家将軍 尼将軍】この二大問題をめぐって何回かの交渉がもたれたすえ、上皇方は頼朝の遠い血縁にあたる左大臣九条道家(さだいじんくじょうみちいえ)の子で二歳の幼児三寅(みとら)(のちの頼経)を鎌倉に送ることにした。そして政子は三寅の後見人として幕府の政治をみることになった。これが尼将軍(あましょうぐん)である。しかし頼朝の妹婿で京都守護をつとめた一条能保の子二位法印尊長ら上皇がたの決意は、いっそう堅くなった。
 承久三年になると、上皇が神社や寺院に対し、なにものかの死を祈らせているとのうわさが流れだし、世間の疑いの眼は、上皇にむけられはじめた。