【天野氏】そして幕府では、遠江(静岡県)から東の十五か国の御家人たちを招集し、武蔵国の武士の到着しだい、義時の嫡子泰時(やすとき)を総大将として、東海道を京都に進ませることになった。二十二日泰時は十八騎で鎌倉を出発する。内田四郎・天野右衛門尉(周智郡犬居、いま春野町)・相良三郎ら遠江の御家人も従軍している。武士たちはぞくぞくと集まり、東海・東山・北陸の三道にわかれて京都をめざした。
【橋本のさわぎ 内田四郎】このとき泰時軍の中に、上皇がたの小野盛綱のもとに参加しようとする筑井高重たちがまぎれこみ、三十日遠江橋本宿でそれが露顕し、内田四郎は戦ってこれを誅した(『吾妻鏡』『承久記』)。
上皇がたは、幕軍進撃の報と、義時の返書をえて驚き、あわてて防戦計画をねった。しかしその防衛線がやぶれ、形勢不利とみた上皇は、近臣たちに罪をきせ、自分は責任をのがれようとした。上皇からみはなされた武士たちは四散する。承久の乱の終幕である。