宮廷の粛清

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 【菊川】また張本と認められた葉室(はむろ)光親らの貴族は鎌倉に送られる途中で、みな殺された。なかでも承久三年(一二二一)七月、前中納言宗行が遠江国菊川駅にやどり「終夜眠ること能わず」宿の柱に「昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊川 宿西岸而失命」とかきつけた話はよく知られている(『吾妻鏡』『東関紀行』)。ついに幕府の処置は核心にせまる。後鳥羽・順徳両上皇の配流(はいる)と、後鳥羽天皇の兄守貞親王(後高倉院)の院政、その皇子後堀河天皇の即位(仲恭天皇を廃した)により、幕府は宮廷の粛清をはかった。
 幕府は後鳥羽上皇がたの莫大な荘園群はすべて没収し、条件つきで後高倉院にかえした。乱後の朝廷が、幕府の思うままに動くようになったのはむりからぬことである。