弘安八年(一二八五)十一月ついに頼綱は泰盛を討ち、その与党は敗北して全員戦死した。霜月騒動とか、弘安合戦という。霜月騒動によって、幕府政治の方向は大きく転針した。幕府政治の第三段階である。いままでは執権が幕府の最高権力の象徴であった。北条氏の家督つまり得宗(とくそう)(義時の別名からおこった)の権力が確立して、得宗は必ずしも執権でなくともよくなった。得宗と執権との関係は、院政における上皇と天皇との関係に似ている。両執権や評定会議以下の公式の制度は有名無実となり、得宗が「鎌倉殿」にも似た専制支配をすることになった。