鎌倉武士の一族

390 ~ 391 / 706ページ
 この一族は、一族の長の家督(かとく)(惣領)を中心にかたく団結していた。惣領(長男とは限らない)は、軍事指揮官でもあった。惣領にしたがう一族は、庶子(そし)とよばれた。この両者のむすびつきを惣領制という。
 
 【党】一族よりさらに広い団結として党(とう)がある。すでに平安(七九四-一一八〇)末に武蔵七党(むさししちとう)が活動している。鎌倉時代には、北九州の松浦(まつら)党、紀伊(和歌山県)の隅田(すだ)党などがとくに有名である。紀伊には白鬚党もある(『佐々木文書』)。その構成員は、血縁関係よりもその近所に住むものをふくむようになった。
 
 【一揆】党の中には、その成員がそれぞれ平等な立場で、共和的な団結をするものがあり、それは一揆(いっき)とよばれる。南北朝(一三三六-一三九二)のころ多くみられる現象で、団結によって、外敵とのびてくる農民をおさえつけようとした。
 一族の団結とちがい、党や一揆では、一人の人物が、とくに全体を統率することはない。
 
 【氏神 氏人 氏子】武士の一族のむすびつきの精神的なよりどころは、氏神であった。惣領は一族の氏神を祭る権利をもち、この呪術的な権威によって一族を統率した。この武士団がその土地の神を祭っても、やはり氏神(うじがみ)といった。一族は氏人(うじびと)とよばれる。惣領が神主職(かんぬししき)(権利)を独占しないで、庶子たちの有力者にも一年を限り神主の役をもちまわるような宮座(みやざ)(氏神をまつる人びとの特権的な団体)の組織では、氏子(うじこ)とよぶようになってくる。鎌倉時代のはじめころからであるが、庶子たちの実力がついてきた証拠である。