【在家】東国や九州などの近畿から遠く離れた地域の農業経営体は「名」と同じような「在家(ざいけ)」であった。それは十一、二世紀になるとあらわれてくる。中央の貴族・官庁とか国衙・在地領主などで、夫役(ぶやく)(人夫役、労働力徴用)を在家ごとに徴収するため、在家の体制をつくった。東国と西国地方で早く開墾された水田地帯には、百姓名も早くから成立していた。しかし畠作地帯や山間部では在家が多い。在家は家・屋敷の園地が一体になっている。
【名子 加地子 脇在家】在家主は、一、二町歩程度の耕地をもち、家人や下人をかかえたのもあるように、独立の経営をする農民である。そして在家には在家役(ざいけやく)といい、おもに夫役(ぶやく)がかかる。この夫役で広大な原野の開墾と経営ができた。また在家主の田畠には、年貢と加地子(かじし)が徴収される。こんな収得体制は、名の体制にくらべて、領主から強い支配をうけていたことを示している。本在家には、脇在家(わきざいけ)(新在家)をしたがえていた場合もある。そして本在家が減少してゆくのに対し、脇在家はふえてくる。鎌倉時代のすえころになると、在地領主は、在家の内部の田地面積を丈量し、一定額の公事(くじ)をかけるようになった。