蒲御厨

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 蒲御厨(かばのみくりや)(伊勢神宮や賀茂神社の領地が御厨)
 
 【安間郷】当市の東部地区旧蒲村・旧和田村・旧飯田村など、二十四郷(『蒲の栄』)をふくむ地域にあたり、安間郷など五郷にわかれ(「応永廿九年閏十月日東大寺大勧進雑掌申状案」『東大寺文書』三回の十一所収)、天竜川以西の東海道に沿っている。
 
 【かんま 神立 飯田村】天正十八年(一五九〇)十二月廿一日付増田(ましだ)長盛・長束(なつか)正家連署状に(「鴨江寺文書」『県史料』五所収)「かんま神立」とあり、文禄弐年(一五九三)九月十一日付堀尾次郎介の社領寄進状には「遠州長かみの郡かんま之内飯田村」とある(「稲荷神社文書」『県史料』五所収)。このころに蒲を「かんま」と発音したことがわかる。
 
 【蒲氏】平安朝(七九四-一一八〇)のはじめ、蒲神社神官蒲氏の祖先がこの地区のうちを開発した。しかし国衙(こくが)(地方庁)の圧迫に対抗するため、伊勢(伊勢市)の皇大神宮(こうたいじんぐう)(内宮)祢宜大中臣氏(ねぎおおなかとみうじ)をへて皇大神宮に五百五十町歩を寄進し、毎年米三十石を納めることになった。内宮が領家(本家)である(『神鳳鈔』)。
 
(表)蒲24郷(遠江国風土記伝による)
1安間郷安間村・安間新田村・北島村・薬師村・薬師新田村
2神立郷神立村・将監名村・下村・宮竹村・宮竹新田村
3上之郷上之郷村・西在所村
4丸塚郷西塚村・丸塚村・上新屋村
5原島郷原島村
6笹箇瀬郷笹箇瀬村
7橋羽郷橋羽村
8永田郷永田村
9植松郷植松村
10大蒲郷大蒲村・名切村・塚越村・西伝寺村
11渡瀬郷渡瀬村・次広村・別久村
12青屋郷青屋村
13小松方郷小松方村
14西之郷西之郷村
15長鶴郷長鶴村
16竜光郷竜光村
17幡多郷上飯田村・下飯田村
18福増郷福増村
19大塚郷西大塚村・東大塚村
20新貝郷新貝村
21半場郷半場村
22鶴見郷鶴見村
23安富郷安富村
24庄屋郷庄屋村

 【検校職 蒲神明宮】蒲氏は、蒲検校職(かばけんぎょうしき)という管理人(荘官)となり、また皇大神宮を勧請(かんじょう)して神明宮(蒲神明宮は、御厨の庤(かんだち)神明から郷村の神明社になった)をたて、その神官もかねて御厨の経営をした。【広福寺】御厨内の広福寺(いまは光禅寺)は神明宮の神宮寺で、惣検校がその別当をかねた(『蒲神明宮文書』)。【将監名】当市の将監町にあたる地域は、内宮袮宜の知行した将監名という名田の跡で、領家の直営地(佃)であろう。
 幕府は蒲神明社の修造を御厨政所に命じ(建長六年正月・弘安七年六月)造営料を遠江国中平均に賦課し(嘉元元年八月)、あるいはみずから造営して(文永元年七月)いる。
 鎌倉幕府ができると、北条時政が地頭職、工藤氏が地頭代職、蒲氏が一部の地頭代職を与えられた。
 
 【地頭職】この地頭職は、正治元年(一一九九)三月、将軍頼家から祈願のために停止されたが(『吾妻鏡』)、いつしか復活し、のちに得宗領(とくそうりょう)(北条氏の家督の所領)となった。後堀河(ごほりかわ)天皇(一二一二-一二三四)皇女室町院(むろまちいん)(一二二八-一三〇〇)の御領のうちに、蒲御厨地頭職があり、武家(ぶけ)が進上したとある(「室町院御領目録」『八代恒治氏所蔵文書』所収)。得宗領との関係は不明である。

蒲御厨略図

 【渡瀬氏 頼母木氏 大角氏】蒲御厨では天竜川沖積層地域の開発が進み、蒲氏の一族から小地域の名主(みょうしゅ)がでてきた。渡瀬・頼母木・大角などの公文(くもん)は江戸時代にも村役人をつとめている。
 蒲氏は領家の伊勢内宮がわの荘官の立場では蒲検校職であり、地頭としては、一部の地頭代職をもっていた。享徳(きょうとく)元年(一四五二)蒲の代官応島氏に対する公文(くもん)・百姓の訴状のうちに、彼が伊勢上分米(じょうぶんまい)の下地(したじ)(土地)の知行権を横領したという。領家伊勢内宮の納米三十石の土地がきまっていたとみえる。

北条時政下知状(浜松市 蒲神明宮蔵)

 【公文】蒲は用水の関係で東と西の地域に大きくわかれ(蒲上下両郷ともいう)、二十数人の公文(くもん)がいた。
 
 【竜泉寺 稲荷山】大永五年(一五二五)閏十一月廿三日瀬名氏貞の寄進状(『竜泉寺文書』)のうちに「蒲東方之内稲荷山竜泉寺領」とある。稲荷山は上飯田に所在する。安間川で東西をわけたのであろう。【和市 引馬市】蒲の公文は年貢・公事(くじ)・在家役(ざいけやく)の徴集権をもち、年貢を浜松荘引馬市で換金するばあい(和市)市場の枡で二升(利益率二割、米一升は一・四キロ)が余得になった。【手作地 請作地】また給田・免租の屋敷地などをもっている。その土地は一部の手作地(てづくりち)(直営地)と請作地(うけさくち)にわかれ、手作地は下人(げにん)に耕作させ、請作地は地下(じげ)の百姓(名子(なご))が請け負っている。名子は名主をはなれて生活できないが、下人ではない。
 惣公文(そうくもん)は多母木氏で、その本拠は飯田郷である。いまも多母木(頼毋木)の旧屋敷跡が残っている。(菊池武雄「戦国大名の権力構造」『歴史学研究』第一六六号所載。『蒲の栄』『蒲郷土読本草案』)。