浜松荘

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 浜松荘 後堀河天皇の皇女室町院(むろまちいん)疇子は、多くの御領(ごりょう)をもっていたが、正安(しょうあん)二年(一三〇〇)になくなった。持明院統(じみょういんとう)は文永四年(一二六七)に長講堂領(ちょうこうどうりょう)を、大覚寺統(だいかくじとう)は弘安(こうあん)六年(一二八三)に八条院領を伝え、両統の所領は平衡をたもっていた。ところが正安二年、室町院がなくなると大覚寺統の後宇多(ごうだ)上皇(一二六七-一三二四)は、室町院領をその妃永嘉門院に伝えるよう幕府に申しいれた。しかし持明院統の伏見(ふしみ)上皇は、強くこれに反対する。幕府の意見で、乾元(けんげん)元年(一三〇二)八月に室町院領は折半して、持明院・大覚寺両皇統に伝わることになった。
 
 【大覚寺統】大覚寺統の分は、亀山法皇(一二四九-一三〇五)が管理し、嘉元(かげん)三年(一三〇五)九月なくなるときに処分した目録でわかる。なかに飯田荘永定卿・浜松荘前左大臣、遠繁・里郷権大納言典侍武勝・宇間郷後堀川院法華堂・朝田・阿多古持明院三位入道・宇布美郷遠繁 岡部郷賀茂神主経久可相伝知行之由、被下院宣・寺島季俊請所、二千五百疋云々・大窪郷三条三位中将がある(『昭慶門院御領目録』『亀山院御処分状』)。