【引間郷】飯田荘は、引間郷飯田とか飯田郷ともいわれた。三代(白河・鳥羽・後白河三上皇)御起請(ごきしょう)の地といい、荘園としての歴史を誇っている(『東寺文書』)。飯田地区が浜松荘の原型であるかもしれない。浜松荘の飯田郷が、後伏見上皇御領になったとき、飯田荘と改め、浜松荘の系列下に属したのであろうか。「新院御分」とあるのは、後伏見上皇の分のことである。亀山法皇は、持明院統の後伏見上皇が在位わずかに三年で位を大覚寺統の後二条天皇に譲られたのを感謝し、崩御にのぞみ飯田荘など五つの荘園を譲られた。
【宇間郷】浜松荘は、前右大臣西園寺公衡が領家で、遠繁が請所(うけしょ)か、代官であろう。宇間郷は後堀河天皇法華堂が領家である。そのすべては後宇多上皇が本家であり管領(かんれい)する。徳治元年(一三〇六)六月に上皇は、これらの所領を妹の昭慶門院(しょうけいもんいん)に伝え、九月門院は出家した。幕府の疑惑をさけるためである。昭慶門院領とはいうが、後宇多上皇が管理している。