岡部郷の地頭職は、文永十一年(一二七四)六月以前に京都賀茂神社の片岡社の社領であり、祝(はふり)片岡師重の女筑前局が知行していた。筑前局は、後堀河天皇に仕えていて(賀茂社の神主の女は、江戸時代でも宮廷に仕えていた人がある)これの代官職を知行していたのだろう。
【地頭職】岡部郷は本家職が皇室領、領家職は賀茂社神主経久、地頭職は賀茂社の片岡社、さらにその代官があるという複雑さである。文永十一年に筑前局がこれを賀茂の神主に譲る契約をまもらないため問題がおこり、後深草法皇が裁決されている(「上賀茂社司森氏文書」『遠江国風土記伝』所収)。
弘安六年(一二八三)九月、安嘉(あんか)門院がなくなった。女院は後高倉法皇の皇女で、多くの御領をもっている。浜松荘もその法事の費用十五貫文(一貫文は千文、一文は銅銭一枚)を亀山上皇御所に納めた(『勘仲記』)。
【賀茂神社 賀茂真渕】嘉元(かげん)元年(一三〇三)以前に後宇多上皇は、改めて岡部郷の地頭職を京都賀茂神社の片岡社に寄進している。いわゆる『昭慶門院御領目録』(じっさいは『亀山法皇御領目録』)の岡部郷の下に註記されているのは、その意味である(もと岡部郷、いまの東伊場町に賀茂神社が勧請されている。なお師重の子孫でここに土着した人の後胤が賀茂真渕である)。嘉元元年に後宇多上皇は、片岡社に地頭職を保証された。その地頭職は田中三郎入道であり、奥山六郎とともに片岡社の代理人に引き渡すよう、鎌倉幕府がめいじている。代理人は岡部郷の庄家(事務所)に住んだものと思われる(『賀茂別雷神社文書』『座田文書』)。
【雑掌 岡部村】嘉暦元年(一三二六)十二月、また地頭職を押領されたので、幕府は奥山六郎とともにこの土地を雑掌(管理人)に引き渡すよう命令している(『賀茂注進雑記』)。慶長六年(一六〇一)正月徳川家康は、岡部村の地四石二斗を賀茂神社(当市東伊場町)に保証した(「岡部文書」『浜松市史史料編二』所収)。