河勾荘

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 河勾(かわわ)荘 京都松尾神社では、承安元年(一一七一)に社領の池田荘に境界の杭を打とうとしたところ、隣接地の頭陀寺領川勾荘の荘官と紛争をおこした(『松尾神社文書』)。【本郷 頭陀寺之土倉】『親元日記別録』には、文明八年(一四七六)四月、幕府の評定で、本郷(当市本郷町)の僧が「遠州河曲庄(かわわのしょう)頭陀寺之土倉」のことを訴えた裁決のことを書いている。この地に質業者が営業していたのである。【四十六所明神 津毛利神社】河勾荘に四十六所明神があった((天正十八年)八月十日長束正家書状写『津毛利神社旧蔵文書』)。貞享二年(一六八五)六月十一日徳川綱吉の社領継目安堵朱印状写の包紙に「遠江国長上郡河勾庄四十六所明神領」(『桑原文書』)と書いてある。鹿児島県肝属郡に四十九所神社があり、同郡の宗社であった。四十六所明神も同じような信仰をえていたであろう。いまは津毛利神社といい、市内参野町に鎮座している。
 
 【東漸寺】明応三年(一四九四)ころ「河勾荘東漸寺」(『円通松堂禅師語録』三)とあり、寺の歴史の「一こま」である。
 『宗長手記』に「八十五年有て義忠入国、子細は、河勾庄普光院領、懸川庄普広院領改替、ともに御判有て、入部の事、其時狩野宮内少輔といふ者遠州守護代職、吉良殿の内巨海新左衛門尉この庄を請所にして在城、よき城を構へ、狩野と申合、入部を違乱す」とある。延徳二年(一四九〇)九月二十日付京都(京都市上京区)相国(しょうこく)寺普広院領の当知行目録(岡谷惣介氏所蔵文書)に「遠江国河勾庄」とある(頭陀寺の寺領でもある)。吉良氏の部下巨海新左衛門尉が、普広院(これは不明)領懸川荘は遠州守護代狩野宮内少輔が、ともに諸所(年貢の納入を請け負う)になっており両者が争った(この詳細については第四章にみえる)。
 
 【老間村】永禄元年(一五五八)閏六月、今川氏真の祥光寺にあてた寺領安堵状(「祥光寺文書」『浜松市史史料編三』所収)に「遠州河勾庄老間村」とある。【平間 河袋 高木】永禄参年十月五日今川氏真の判物写(「松林寺文書」『県史料』五所収)に「遠州河勾庄平間・河袋・高木」とある。その平間には、頭陀寺の敷地料田があった(「頭陀寺文書」『県史料』五所収)。【大柳村】永禄四年十二月十一日付今川氏真の朱印状写(「恩地村太田彦太夫方記録之写」『随庵見聞録』所収)によると、川勾荘大柳村の与三郎は年貢未進をして逃亡したが、未進分を弁済したので名主職をまた給与された。【飯田新田】なお寅九月三日、彦坂光正の飯田新田町百姓中にあてた手形によると(「伊藤文書」『県史料』五所収)「川輪之庄飯田新田」とあり、新田の開発されたことがみられる。
 
 【恩地】また天正十八年(一五九〇)十二月、豊臣秀吉は頭陀寺にあてた朱印状(しゅいんじょう)で「河勾庄恩地・門前廻市場二百石」(『頭陀寺文書』)を保証している。当市河輪(かわわ)町・老間(おいま)町・恩地(おんじ)町・大柳(おおやぎ)町は、いずれもこのような歴史をもっている。『遠江国風土記伝』では、河勾荘を三十八村としている。

河勾荘の現景(浜松市東町付近)