【伊佐知郷】村櫛荘 市内、旧庄内村を中心とし旧湖東村伊左地・和地(永正十六年正月十一日今川氏親判物『大山寺文書』)もふくんでおり、東郷と西郷にわかれる。伊左地が東郷であろうか、伊佐知郷といわれている(『桂文書』『東寺百合文書』)。ここは最勝光院領である。後白河天皇(一一二七-一一九二)は、皇后建春門(けんしゅんもん)院の発願(ほちがん)で、承安(しょうあん)三年(一一七三)十月、山城(京都府)に最勝光(さいしょうこう)院をたてた。【村櫛荘の開発】村櫛荘も開発した豪族が寄付して最勝光院領になったと思われる。この御領は後鳥羽上皇から後高倉院にうつり、後堀河天皇をへて、後嵯峨天皇・亀山天皇・後宇多天皇・後醍醐天皇にと伝わった。【東寺領】後宇多法皇は、正中元年(一三二四)なくなる以前に、最勝光院執務(しつむ)職と寺領を京都の東寺(教王護国寺)に寄進した。村櫛荘の年貢は米百石と綾被物一重(あやのかずけものひとかさね)であるが、正中元年ころには、六十石となっている。また伊佐知郷は、十石六斗六升余だが、「嘉暦三年(一三二八)から未納であり、地頭馬場谷禅尼に奉書(ほうしよ)をだしたが、応答がないから未納分は納めさせよ」と、元徳二年(一三三〇)十月幕府は、雑掌定祐(管理人)に命令している(『桂文書』)。村櫛荘が、東寺に寄進されるまでは、後宇多上皇などの本家と陸奥守重時などの領家があった(『東寺百合文書』、上島有「東寺寺院経済に関する一考察」『国史論集』所収)。【領家氏】のちになると小土豪領家氏がいる(『大沢文書』)。領家方の代官の子孫であろうか。