【二毛作】文永(ぶんえい)元年(一二六四)以前に、備前(岡山県)・備後(広島県)両国では、米と麦の二毛作(にもうさく)が行なわれていた。紀伊国(和歌山県)でもこのころ米と麦の両方の年貢を負担する田があった。二毛作は、日本農業の歴史のうえで画期的なことである。
【小地主の成長】収穫高をふやすのにいちばん早い方法は、新しく耕地をつくり、作付(さくつけ)面積をひろげることである。領主は、用水の利用をめいずるとか、開墾地の年貢を軽減して新開の奨励につとめた。それはいままでの田の周囲を開墾してゆく切添(きりそえ)式の新開となって結実し、新たに多くの小さい地主(名主)ができた。このことは、社会が発展してゆくうえに大きな原動力となっている。
鍬(くわ)・鋤(すき)などの農具が改良され、農民が利用できなかったこれら農具や牛馬、ことに牛が農耕用として有力農民にゆきわたってきた。苗代(なわしろ)栽培や、それ以前に水につけて発芽をうながす浸種法も行なわれてくる。用水の公正な配分のため農民の智恵がこらされた。肥料は草木の灰が多くつかわれた。
農作物の種類は、鎌倉時代でも平安時代とそれほどかわらない。
【遠江の老農】『地蔵菩薩霊験記』に遠江国のある山里の、王大夫という老農夫が、鹿や猿に作物を荒らされることが多いので、あるとき地蔵尊に「もし今年の粟を猿にも鹿にも食わせずに守ってくださったら、秋には粟飯を作りお供えしましょう」と祈った話がみえる。山里では、粟飯でも珍味であったにちがいない。
【遠江の荒廃】源平の合戦のため、遠江(静岡県)も戦場となり、荘園の土地が荒廃した。京都の賀茂別雷(かもわきいかずち)社領遠江比木荘(小笠郡浜岡町比木)へも平氏追討の源氏軍が乱入し、農民は逃亡した(『賀茂別雷神社文書』)。しかし遠江国は、頼朝の知行国で、その国衙領の年貢などは頼朝の収入になった。また頼朝は、荘園領主の抗議に対し、御家人にめいじ国役や年貢などを納めさせるという低姿勢をとっている。幕府が荒廃田を復旧させたなどの証拠は残っていないが、復旧しなければ年貢などをだせないのだから督促の一方では、勧農政策がとられたであろう。