農業生産力の高まるにつれて、農業から製塩業・造船業・漁業などがわかれてきた。漁場は漁民が交替輪番でつかうようになる。座(ざ)と似かよった性格である。平安すえから鎌倉はじめにかけて、宮廷・貴族・神社・寺院らが、それぞれの家の経済体系を確立してゆく。【御厨 浦】この動きの中で海産物を納める供御人(くごにん)・供祭人(ぐさいにん)を寄人(よりうど)として御厨(みくりや)を設け、またはその荘園とか国衙領のうちに、浦・浜・津などの地区を含め、生産者を招いて、開発した。
【白羽神社のばあい】しかし神社のばあい、魚類は神に供える贄(にえ)として必要である。神社の多くは、この経済体系の中に、漁業生産物を入手するための道を用意していた。なお鎌倉初期ころまでの漁業は独立した産業でなく、塩業も交通運輸業などとわかれていなかった。榛原郡御前崎町白羽の白羽神社は、海岸の近くに位置し、神主家袮宜家(ねぎけ)が在地領主として、年貢・公事を徴収し、鯨の頭を神に供えていた(『白羽神社文書』)。そのほかの魚類も贄として確保していたろう。そして在地領主は、労働力を保持することにつとめた。
平安すえから鎌倉はじめにかけては、漁業にたくみで、船を自由にあやつり、製塩の技術も熟練した人びとの血縁的な集団が、浦から浦に出入して移動していた。