酒造は鎌倉中期ころには、重要な商工業部門であった。京都はもっともいちじるしいが、鎌倉でも建長四年(一二五二)九月、民間で三万七千二百余の酒壺があったほどである。
しかし鎌倉幕府は、道義・勤倹を指導理念としている。建長四年に鎌倉の民家の酒壺を破却し、売酒を禁止し、諸国の市酒を停止したのをはじめ、酒の販売の禁止は、鎌倉幕府の伝統政策であった。文永元年(一二六四)に東国、弘安七年(一二八四)に諸国、同九年に遠江・佐渡(新潟県)両国、正応三年(一二九〇)尾張(愛知県)に酒販売禁止令の徹底を命じた。酒造業者は、その利潤を投下して高利貸業を経営したものが多い。【引馬宿の土倉】引馬(引間・曵馬など混用している)宿の土倉も酒屋の兼業であったかもしれない。
【細江郷の製紙】中世製紙業の歴史は、地方製紙業の発達の歴史である。貨幣経済の進みと、商人の台頭で市場が拡大したため、地方紙の生産量はふえ、種目は多くなる。地方紙は、商人の手で中央市場に搬入された。遠江細谷郷(ほそやごう)(掛川市細谷)では、山衙小紙を生産している(小野晃嗣「中世に於ける製紙業と紙商業」『日本産業発達史の研究』所収)。