【引馬宿市】地方農村でも平安の末(七九四-一一八〇)になると、交換取引の市場(市庭)ができ、しだいに普及してくる。東海地区は近畿地方についで栄えたところがあった。貞応(じょうおう)二年(一二二三)に、はじめて現われる尾張(愛知県)海東荘上荘(萓津東宿、名古屋市内)の市庭は、仁治三年(一二四二)ころでも『東関紀行』に「そこうの集りて里も響くばかりに罵り合(あ)う」市であった。もう東海道の宿(しゅく)には、ほとんどどこでも日をきめて市がたっていたろう。京都南禅寺領の遠江初倉荘の江得郷(旧榛原郡初倉村、いま島田市)には嘉吉(かきつ)三年(一四四三)に、浜松荘の引馬宿市は長禄元年(一四五七)に(『東大寺文書』四ノ二十九)市場の栄えていた証拠がある。この二つの例は、時代がおそすぎる。鎌倉時代からあったと考えてよい。
【定期市】鎌倉時代のはじめになると月三回になる。引佐郡三ヶ日町も三日市のことであろう。月三回の三日市の付近には、二日市・四日市があったと思われる。これらの市場のあいだには、横の連絡があったらしく、市場をめぐってあるく行商人があった。
備前国福岡庄の市場 一遍上人絵伝 部分(京都 歓喜光寺蔵)