市場商人は名主

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 市場商人は、市場の付近に耕地をもっていて、自分で耕作するか、作人に耕作させた名主であった。しかも副業の生産品を商品にしていた。
 
 【和市】地方市場の取引は和市(わし)といい、「せり」相場である。はじめは領主の考えた値段できまった。のちには、代官立ち合いのもとで、農民と市場商人が自由競争できめる。【蒲御厨の年貢 引馬市】『東大寺文書』によると、当市内にあった蒲御厨(かばのみくりや)の年貢なども引馬市で和市により換金している。
 
 【市場税】市場は自然にたてられたこともあるが、鎌倉中期になると、荘園領主が市津料(市場税)などをとるために市場を建設するようになる。市場税は市場にかける公事銭(くじせん)と駄銭(だせん)、つまり商品搬入税、座銭または貸屋敷(市庭の在家)の賃料をふくむ。このため領主は市場を保護し、取り締まり、市場からの収益をふやすことにつとめた。
 農村に市場が栄えると、年貢銭を商人に輸送させたり、年貢の徴収を商人に請け負わせるようになった。【借上】延応(えんのう)元年(一二三九)、幕府は諸国の地頭が、山僧(さんそう)(延暦寺の僧)・商人・借上(かしあげ)(高利貸)らを代官にすることを厳禁している。のちのことだが永享(えいきょう)十二年(一四四〇)、京都の東寺領の遠江細屋(ほそや)郷(掛川市細谷)の代官に、行商人の道伊がなっている。未納のため、嘉吉元年(一四四一)八月土豪の天野氏がかわった。
 地方農村の商人とちがい、京都・奈良などの都市商人は、遠隔地との取引を発展させてきた。【問丸】鎌倉中期からおこった年貢の貨幣代納、貨幣流通の発展によって、倉庫・輸送・委託販売・旅宿を経営する問丸が発達し、経済組織の進みは港湾都市を急に発展させた。都市商人の取り扱う商品は、衣食住の必需品から奢侈品など多量である。【問屋】このため多額の資本を要するので、問屋が発生した。しかし鎌倉時代では貨物を大量に集中し、卸売する問屋と消費者をつなぐ専門の小売商がなかった。それは問屋卸売業者の手代(てだい)があたっている。

信濃国伴野の市場 一遍上人絵伝 部分(京都 歓喜光寺蔵)