十一世紀ころ宋(中国)の対外政策が積極的になり、宋船の渡来もしだいに多くなった。十二世紀のなかばに、平清盛は政権をにぎると、これまでの対外政策をかえて、積極的に宋との通商を行なった。鎌倉幕府は、対外貿易の管理権を大宰府(だざいふ)から鎮西奉行にうつし、民間の自由貿易も認めた。そして十三世紀はじめには、乗組員百人にものぼる大船が、毎年四、五十隻も宋に渡り、材木や硫黄を輸出し銅銭を輸入していた。
幕府は十三世紀のなかばに、貿易船を一年に五隻と制限したが、その幕府自身が「御分唐船(ごぶんとうせん)」という御用貿易船を送り、直接に海外市場に進出した。日本からの輸出品は、硫黄・木材、志摩(三重県)の真珠などで、輸入品は中国産の磁器・織物・文房具・絵画・書籍のほか中国を中継点とした南方産の香料・薬材・鳥獣などである。中国は南海貿易の余剰品を放出する市場を日本にあてていた。
【宋銭】なお日本にとって重要なことは、十一世紀のなかばから宋の銅銭が輸入されるようになり、その額はしだいに増加し、ひろく国内に流通したことである。これは、はるか後世にまで流通して、日本の経済にとってきわめて大きな影響を与えた。
朝鮮半島の高麗との関係も十三世紀になると、日本から渡航する進奉(しんぽう)船が、毎年一回二隻ずつとなった。