幕府は嘉禄(かろく)二年(一二二六)八月に准布をとどめ銅銭をもちいさせた。しかしすでに承久(じょうきゅう)三年(一二二一)には、伊予国(愛媛県)から京都への年貢が銭で納められている。土地売買の証文を集めて調べてみると、鎌倉中期から貨幣の利用度がますます多くなってきたことが証明できる。しかし貨幣が流通しても、下層の農民までが貨幣経済にまきこまれたわけではない。
都会では貨幣の流通がはげしくなったため、荘園領主は、年貢を貨幣で要求するようになった。年貢を納める責任者は、農村の名主や荘園の管理人である。彼らはこの貨幣を村落の高利貸に借りるか、市場で農産物を売ってととのえねばならない。地方農村の定期市場の機能は、いっそう強化される。【引馬市】引馬の市もこの面から栄えてきたであろう。