貨幣経済の進展は、一定の土地からの収入だけしかもたぬ御家人の生活を苦しめた。このため御家人の土地さえ借上人の手にわたることが多かった。借上はその業態から質物を収蔵するため、土倉をかまえることになった。そして高利貸のことを土倉(どそう)(土蔵・倉預・蔵本)というようになる。
土倉は、延暦寺(えんりゃくじ)(大津市、天台宗総本山)などの保護をうけて成長したが、やがて独立する。商品交換が発達した地方では、ほとんど例外なく土蔵が活躍している。定期市場の開かれた場所には、市場の倉がつくられ、商品の保管と市場の金融にあたった。引馬の市の土倉については、のちに述べる。