信生法師と池田宿の侍従

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 信生法師にも池田宿でなじみの侍従がいた(『信生法師集』)。信生は、下野国(栃木県)塩谷(塩谷郡矢板町)の豪族塩谷朝業であり、歌人として将軍実朝に親近していた。出家して法然の弟子となるが、元仁二年(一二二五)二月京都を出発して鎌倉に向かい、池田宿の熊野の侍従に一宿を求めたが謝絶される。
 
 【浜名の橋 池田橋】 「橋本のやとにて年来の宿にて侍る君のもとに物いひいてゝのち、あか月たつとてつかはし侍る、
 おもひいつや姿かはらぬ月たにもおほろにかすむ春のよの空
   彼宿をすくとて、橋にかきつく、
 立かへりはまなの橋を過行は よをわたるとや人のみるらん
   池田の宿にて、昔申なれたりし侍従といふ君のもとに宿をかり侍に、みしらぬさまにて宿をかしけにもなければ、いひいれ侍ける、
 むかしみし姿にもあらす成ぬれは池田の水もかけをやとさす」
関東より上洛し侍し道にて、池田の侍従と申君かもとへ、
とへかしな夜半のけふりのあとまても はれぬ名残にむすふおもひそ
 返事、
 はかなくてやみにしゆめを今更に おとろかさしととはぬはかりそ」
 
とあった。信生は、世捨人の身を忘れたとみえる。
 重衡の宿った寿永三年(一一八四)と、信生法師の宿泊した時代とでは四十一年をへだてている。同一人とすれば、すでに六十に近い。【行興寺】侍従と母の墓という、鎌倉時代に作られた宝篋印塔(『静岡県史』第三巻)が、磐田郡豊田村池田の行興寺にある(岩田孝友『遠江史蹟瑣談』)。侍従が実在の人物であることは『信生法師集』で立証される。