橋本宿

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 飛鳥井雅有(あすかいまさあり)は、文永二年(一二六五)から六年ころの七月に鎌倉から京都に帰る途中、遠江橋本の宿につく。夜、浜名湖に舟を浮かべて終夜遊んだ。
 
「はしもとにてぞよるになりてあそぶ、れいのきみどもいできて、月あかければ、入海に舟うけて、よもすがらあそぶ、しばし松のこかげにやすらひて、
   しほ風の涼しき磯の松かげにまさごかたしき月をみるかな」(以上「無名の記」『古典文庫』所収、橋本から浜名湖にかけての光景は紀行文や歌集に多くみえている。『三ケ日町史資料』第六輯ー浜名記ー。「振裾考記」『新居町史』史料編二所収)
 また雅有は、建治元年(一二七五)三月鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ)に、将軍の臨席に供奉のため鎌倉に下る。その紀行文『みやこぢのわかれ』(『古典文庫』所収)を抜萃しよう。
 
 【浜名の橋 ひきま てんちう川 さ夜の中山】「このはまなの橋(浜名橋については『新居町史』史料編一・二に多くの考証がある)は、名をえたる所なる、人ごとになさけあるあそびどもおほければ、けふはとまりたれど、はうじやうゑ日かずなければ、いそき過んとするに君どもきて、ことにけふ(興)ありてあそぶ、れいの事どもさま〴〵あそびつゝ、連歌などする君どもあれば、すきうし、日くるゝほどに、からうじておもひおこしていでぬ、よるに成てひきゝ(ま)にとまりぬ、前中将もとより朝臣これにありけり、いたはけることありて、とうりうしたるよしせうそこ(消息)す、あまりくるしければ、たいめん(対面)せず、日かずのかさなるにつけても、おもひおく人/\の事のみそ心ぐるしき、あはれけふ都に帰る人もがなおぼつかなさのことづてもせん
てんちうといふ川わたりて、おくるゝ物まつほど、かのごうの長者がもとに立いる、ここにはなにがしの卿とかやのむすめ、おもひのほかにすむよしきけば、よびいださんとて、をの/\れいのいとたけふきあはせてまちゐたるに、あめかきくらしふれば、けふはことにゆくすゑとをしとて、人/\すゝむれば、ほいもとげずして立ぬ、ぬれ/\ゆきなやむほどに、さ夜の中山くれてこゆ、」