池田の地頭代も池田宿で遊んでいる(『沙石集』)。平安すえからのち、東海道を根拠とする遊女や「くぐつ」は、かなりな数であったらしい(『傀儡子記』)。
池田宿は天竜川の西にあり、ここに宿泊してから渡ったが、のちここは川床となり、東岸に同じ池田の宿ができた(天竜川の変遷についてはのちに述べてある。貞応二年(一二二三)の『海道記』でも池田宿は西岸だが『夫木和歌抄』三十一に、参議冷泉為相(れいぜいためすけ)(一二六三-一三二八)のつぎのような和歌がある。
「海道宿次百首、いけたそのかみの里は河瀬となりにけり ここも池田のおなしななれと 参議為相」
冷泉為相は『夫木和歌抄』の選者で、遠州勝間田の勝間田長清の和歌の師である。為相が参議在任中の延慶元年(一三〇八)から三年のころに、池田の宿の変遷は、すでに事実とみてよいであろう。