遠江と三河をむすぶ道路

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 【本坂路 浜名峠路 中山峠路 大知波峠路 浜街道】遠江と三河をむすぶ道路は、本街道・本坂路のほか、浜名峠路・中山峠路・大知波峠路・浜街道がある。
 河川や湖口は、流域が変わるので、道路も移動する。西部県境方面の街道すなわち三河路にも鎌倉時代には異動がある。源頼朝は、池田宿・引馬・浜名橋・橋本・白須賀・高師山・境川、三河の雲ノ谷・重山峠・手洗・岩崎・多米・乗小路・豊川・赤坂宿・宮路山にとでたらしい(『静岡県史』)。しかし室町中期までの湖西地方の東海道は、三河からいまの湖西町新所原・吉美・古見をへて橋本の裏山にあたる猪鼻坂から橋本にかせられた浜名橋にかかった。現在の白須賀経由の街道は、戦国時代に開け急速に発達したという(彦坂良平「古代街道に関する一考察」『湖西の文化』第二号)。『吾妻鏡』の頼朝の二度の上京の記事、貞応二年(一二二三)の作者未詳の『海道記』、元仁二年(一二二五)の信生法師(塩谷朝業)の『信生法師集』、嘉禎三年(一二三七)塩谷時朝(信生の子)の『前長門守時朝入京田舎打聞集』(以上『桂宮本叢書』第六巻所収)、仁治三年(一二四二)の作者未詳の『東関紀行』、建長四年(一二五二)三月の宗尊親王の行程を書いた『吾妻鏡』、文永二年(一二六五)から六年ころの七月飛鳥井雅有の『無名の記』、建治元年(一二七五)三月飛鳥井雅有の『みやこぢのわかれ』(以上『古典文庫』)、建治三年(一二七七)十月阿仏尼の『十六夜日記』、弘安三年(一二八〇)の飛鳥井雅有の『春のみ山路』(『古典文庫』所収、京都からの下りは本坂越)、正応二年(一二八九)四月中院雅忠の女で、後深草院二条の『とはすかたり』(『桂宮本叢書』所収、舞坂・引馬宿を経由したか未詳)、若年のころの阿仏尼の『うたゝねの記』、某年の飛鳥井雅有の『もがみの河路』(『古典文庫』)でもほとんど本市内の東海道を上下している。