天竜川には渡船がある。有数の大河であるから渡船する人は川勢をみて恐れをなしたことが、紀行文にみえている。暦仁(れきにん)元年(一二三八)将軍頼経の上京したときには、浮橋をかけたが、供奉人は、水が浅いため騎馬でわたった。組みあわせた舟ただ一つであるから混雑したことは、『十六夜日記』『西行物語絵詞』(実記ではないが)などにみえている。【天竜川の架橋 関銭は称名寺の収入】正中元年(一三二西)八月幕府は、武蔵金沢(横浜市)の称名寺に対し、遠江国天竜川などの架橋を指令した(『金沢文庫文書』)。浮橋であろうか。ここの関銭は、称名寺の収入であったからである。
平安時代に遠江国府(磐田市)と京都とのあいだを租税を運ぶ人は、往は十五日、復は八日である。復の日数が、旅行者の所要日数とみれば、鎌倉時代でもそんなにちがわない。
鎌倉将軍家御教書(横浜市 金沢文庫蔵)