神明社 但木神明社の掛仏

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 【御師】大神宮では、御師(おし)が地方を廻り檀那(だんな)に対し神前に供(そな)えた慰斗(のし)などをくばって歩くのがふつうになる。一般の人びとの神宮への関心も深くなるわけである。大神宮は国家鎮護の神・国家最高神だとの考えはしだいに強まり、各地に神明社が建立されるようになる。神宮の神領は鎌倉時代に七百余もふえたが、これは地方の中小領主の信仰を物語るものだろう。たとえば、天福(てんぷく)元年(一二三三)九月、武士三名は、遠江但木神明社(引佐郡三ヶ日町只木)に掛仏を寄進している。その胎蔵界の背裏に毛彫した銘はつぎのようである。
 
 【但木御薗】「但木御薗
       天福元年癸巳九月日
       大施主 源貞正入道
           藤原真道
           大家末時」

但木神明社掛仏背裏(引佐郡三ヶ日町 只木神明宮蔵)

 【気賀荘 大家氏 浜名氏 県氏】只木のあたりは、気賀を中心とする引佐郡伊福(いふく)郷に属していた。これが荘園化して気賀荘になる。七条女院領であった。大家(おおや)氏は、ここの荘官らしく、源貞正は浜名氏の祖、藤原真道は、県(あがた)氏の祖である(高橋佑吉編『浜名史論』)。
 この伊勢信仰は、元寇ののち一層強くなる。
 
 【蒲神明宮 蒲御厨】蒲大神 当市神立町の蒲神明宮。平安中期から蒲御厨ができ、その鎮守。建長六年(一二五四)修造された。そののち文永元年(一二六四)・弘安七年(一二八四)・嘉元元年(一三〇三)・康永元年(一三四二)と、およそ二十年ごとに造営されている(「蒲神明宮文書」『浜松市史史料編二』所収)。
 
 【大𤭖神社】松尾大明神 京都の松尾神社領遠江池田荘の鎮守。当市中野町に鎮座。現在は同所の大𤭖神社であろう。